全ての人間は幸せになるために生まれ、生きている。誰もが求めているのは愛そのものだ。愛を感じながら生きていくことこそが人々に幸福を与える。

ならば、誰しもが求めて幸福になる方法はなにか?

その一つとして挙げられるのが、男女同士の交わり合いであるセックスだと思う。

そもそもなぜ人間同士がセックスを行うのか?それは単に本能に従って子孫の残す事を目的としているのではないと思う。

なぜならば、セックスそのものこそが神と直接繋がる行為だからではなかろうか。人は皆、生まれながらにして神と分断された感覚を持っているに違いない。

どこかで原罪とかって聞いた覚えがあるような無いような・・・(*´∀`)

とりあえず、それを補う方法の一つとして、異性との接触を図り神と繋がりを持つのではないかと筆者は思う。

だが、その行為を行う相手を誰でも良いからといって簡単に決め兼ねてしまうことは神自身。いや自分自身をも冒瀆している行為のように思えてしまう。

実際に私自身もいい加減になってどうでも良い相手を求めていた時期があるが。(特にナンパしている人にはありがちではないかな)

一般的には実際には深い関係や、何らかの精神的な繋がりがある異性と接触を行うことが好ましいと思う。なぜならそのような相手といることで一種のテレパシーのような、心地よい安心感が得られ、

そうした相手と肉体的接触を図ることが、更なる安らぎ、平穏、海底にいるような深い静寂感を感じられることができるのではないかと思う。そして実際に体感してそうであり、予感は的中した。

そしてここから大事な事を伝える。あくまで筆者の意見であるが、

セックスというのはある種、異性間で行う瞑想ではなかろうか。

そもそも瞑想とは本来、宇宙と一体感を得たり、この世の大いなる存在、神と繋がる方法でもある。そうすることにより、何度も言うが穏やかで幸せな、深い安らぎを得ることができる。

だからこそ肉体を通して行う瞑想(セックス)とは、まさしく愛そのものであり、神と一体化することにもつながると筆者は考えているのだ。

人はなぜセックスをするのか?愛する合う相手を求めるのか?

それらは単に欲望のままに、本能のままに肉体的接触を図ろうとしているだけではない。

本来は全ての人が愛を受け取るため、幸福になろうとするためであって、神へと繋がりを持つための崇高なる行為そのものだからであると筆者は考えている。

まさにセックスすることは、人々が幸福へと向かう理に適っているのではなかろうか。

また近い内に、男女同士の瞑想についての深い考察を交えてみたいと思う。

最後までお読みいただきありがとうございました。