人は成長を追い求めて、新たなる旅を始める。

それは内なる導きで、見たことも未だかつて味わったことない程の感動かもしれない。その出会いを求めて人は旅をする。新たなる自分に出会うために。

突然だが成長には2種類あると思う。一つ目は、物質的なものを得たり、何かを達成するための成功。

これを実現するために人は行動し、思考を司る脳を巧みに操っていかに効率良く早く突破するためにあれやこれやと動き出し成功を物にしようと翻弄すること。

そして二つ目の成長は、己の感情に向き合い、ひたすら内面と対峙して必要であればその局面を直視し、感覚的世界に身を預けることである。

この成長はハッキリいって超面白い。たとえ表面的な出来事は一切起こらなくてもよい。いやむしろそれが良いのかもしれない。

何故なら幸せとは外側に求めるものではなく、結局のところ内側を深堀して、幸福感やら充足感を発見すること、またはそれに没頭し新たな自己の認識を得ることが出発点でもあるからだ。

この作業を行うことで、幸せとは他者からの反応を追い求めてもいずれ内面に行き着き、結局全ては己自信だということに気が付き、女性への執着が終着点へと行き着く。

そしてこの企てられた陰謀は、全てなんだったのか。何のためにあったのか。結論は未だかつてでない。しかしその結論について、もはやどうでも良くなり、むしろ自分がとった行動、本心へと向き合った果てに澄み切った心、色彩が目の前に現れ、己の好奇心によって内部にあったものが徐々に崩壊へと導かれ、やがて鮮明に残された画像、心象だけが色鮮やかにくっきりと残っていく。

そして世界は煌びやかに映り、眼前にあったものだけがもはや謎。いつしかこれらが体験し得なかったことだろうと気が付き、目の前には穢れなき素の自分だけが残っている。

そこに志す者は何もない。ただあるのみ。して自分は何者かと。いかに自分の空虚なき後を見つめるか、ただ目の前の自分を彷彿とさせる何かに気付けばいいのか。

旅はここにしてならず。はぁ、してここは何処?

 

それでは、再び題材へと戻ろう。

例えいくら女性関係に強くなろうとも、お金持ちだろうと、名誉を手に入れようと全ては他者からの信頼、権威、名誉を求めてるだけであり、自己の幸福感を根本元から満たすこと不可能であると筆者は考えている。

外部によって自己の幸福感を培うため、育てるために影響されるのではなく、内部に幸せを作り出していきたい。

人はいつの日も創造的であるべきだ。成功へ名誉や何かを得ても常に精神的成長を経り続けるべきである。物で内部を満たそうと思っても常に満ち足りていることは難しいだろう。

このような状態では根本的な幸せを自分で見出すことができない。否、見出すことができても、心を満たすことに集中させるべきである。なぜなら基本、人間は皆孤独だ。産まれるのも独りなら、死ぬのも独り。

ならば独りでも幸せ満ち溢れる状態であるなら、他人も幸せに満たせることが可能となる。

全ての基本は自分の中にある。他人に幸せを求めても結局は、元の木阿弥。ナンパして女性関係が満たされても、永遠にこの問題からは逃れることはできない。

であれば最初からこの道に進んでもいいはずだ。どうせなら自ら幸せを見いだせる人間でありたい。

その道こそ真なる成長であり、真なる自己探求である。

この道は死ぬまで終わらない。いや死んでも終わらないだろう。 来世にまで渡って続けるのもいいかもしれない。

ならばその先へと、人は常に一心不乱に進むべきである。