戦いとは共に争い、競い合い、勝ち負けを決めることである。

これは人類の幾千年もの歴史から続いており、人間間だけでなく男女間においても続いているのだ。

最近の「かぐや様は告らせたい」という映画でも恋愛は、好きになった方が負けというコンセプトで恋愛という世界観を演出している。

しかし、こうした戦いを通じての恋愛の価値観はもう終わりにしたい。争いからは、憎しみ、恨みといった、負のスパイラルを人々に生み出すだけである。

これからはお互いが許し合い、認め合う。といった方向にシフトしそれぞれを補ったり、支え合うといったフューチャーにしていきたい。

 

 

しかしながら、こうした古い恋愛の価値観は昔の日本においても見られる。

以前の日本では正室、側室といった女性の身分があった。

これらは当時の恋愛において見事戦いに勝ったもの、生き残った者達だけが与えられる称号である。

しかし、もうそんな物からは学べるものは既にない。

無理して競い合い、生き残りをかけずとも生きていけるのである。

時は21世紀。現代の日本においては一夫一婦制を採用しており、男女が平等に恋愛をし、愛を長ずることができる。

しかし、中にはまだ古い価値観から抜け出せず、むしろ固く信じて疑わない者もいる。

そう、それは私自身がそうであった。

常に恋愛で優位を取って、女性から認められ満悦感、男としての価値観を得るために精一杯女性達に声を掛けていたのである。

しかし、そんな物の今更必要性は無くない。

なぜなら本命である、本当に好きな相手には思いは届けられはしなかった。むしろ本命には怖くなり存在自体が何もなくなってしまうような感覚が残って内側から消えてしまいそうになるのだ。

好きな人に愛を告げ、共に過ごす時間がないのなら幸せではない。

今までの自分は、自信のなさに対する物をを穴埋めするかのようにどうでもいい女性と時間を過ごし、無駄に過ごしただけであった。

そうして欠落した自信を見ないように、心の隙間を塞いで苦しみを直視しないようにしていた。

しかし、ここになってようやく自分の本性が見えた。

ここにあるのは、何も残ってないただの自分。今までナンパを始めて10年間はただの夢を見ていたようである。

結局ナンパなんてただの非日常で、日常の出会いから出会わなければ得るもの、続く幸せはないのだろうか。なにやら虚しさが漂う。

やはり出会う相手は全て自分の鏡である。例え素敵な相手と出会ってしまっても自信が無くて自分から逃げてしまったり、出会っても中身がないから続くはずもない。幸せを掴むはずが逆境して苦しみが重なっていくようだ。

また女性といるのはお金もかかる。やはり男は甲斐性がなければダメなのだろうか。

しかし今はただ内省あるのみ。